叢書 『制度を考える』 創刊の辞
20世紀の終わりに中東欧の共産主義政治経済体制が崩壊するにおよんで、久しく続いた資本主義市場経済との優劣論争には幕が下ろされた。とはいえ、このことが直ちに市場制度による摩擦のない世界統合を意味するものではないということが明らかになるのに、時間はかからなかった。市場経済は、政治的、社会的、歴史的、認知的などの諸要因との複雑な相互作用を通じて発展するものであり、またその成果の社会に対する含みの評価も多様でありえよう。また現時点を中半に挿む1世紀間に、世界人口が3倍にも増加するという展望は、エネルギーや地球環境に重い負荷をかけ、世界経済の持続的な成長可能性や国際政治経済体制の安定性にたいする大きなチャレンジとなりつつある。
こうした状況の下で、人間社会のあり方を規定する制度についての関心がここ十数年程の間に大いに高まってきたのも不思議ではない。その関心は、経済学、政治学、法学、社会学、文化人類学、歴史学、地理学、認知科学、哲学など広い分野に及び、またそれらの学問的知見も徐々に蓄積されつつある。しかし、それぞれの分野での研究成果が互いに影響し合うという状況にはまだほど遠く、また制度とは何か、というような基本的な概念に関してさえ、まだ合意が成り立っていない現状である。しかし、制度とは何か、とは単なるスコラ(衒学)的な論争主題ではなく、現実の世界に大きな影響を持ちうる問題なのである。
本叢書は、そういう状況に鑑みて、制度に関する進化しつつある学問的な知見を広く社会に伝えるという意図をもって企画された。その収録にあたっては、独創性・創成性、狭い分野境界を越えた潜在的影響力と洞察、鋭敏な分析方法や思考方式、歴史や制度比較にかんする新鮮な記述とその意味の読みとりなど、何らかの点において類書のない特色を持った書物を内外に広く求め、選択していきたい。それらの書物が広く読まれることによって、日本における制度研究の視野と超学際的なコミュニケーションの輪が拡がり、ひいては進化する学問的成果が社会におけるよりよい制度の探索と共鳴することを期待する。
2007年12月
監修者 青木昌彦
編集協力者 池上英子
池尾和人
岡崎哲二
河野勝
瀧澤弘和
松井彰彦
山岸俊男
叢書 『制度を考える』既刊と刊行計画
監修:青木昌彦
NTT出版
[2007年春刊行]
当代中国経済改革 呉敬l著
(上海遼東出版社、2004年)
『現代中国の経済改革』
日本語版監修:青木昌彦 日野正子訳
Reinventing the Bazaar――A Natural History of Markets
by John McMillan(Norton, 2002)
『市場を創る――バザールからネット取引まで』
瀧澤弘和訳
[翻訳中 2007年刊行予定]
Institutions and the Path to the Modern History
by Avner Greif( Oxford Univ. Press, 2005)
『制度と近代史への経路』(仮題)
岡崎哲二・神取道宏訳
Microeconomics――Behavior, Institution, and Evolution
by Samuel Bowles(Princeston Univ. Press, 2004)
『ミクロ経済学――行動・制度・進化』
塩沢由典他訳
[計画中 2008年刊行予定]
Convention――A Philosophical Study
by David K. Lewis(Blackwell, 2002/First published by Harvard UP, 1969)
『慣習――哲学的考察』
瀧澤弘和訳
Natural Justice
by Ken Binmore (Oxford University Press, 2005)
『自然的正義』
訳者 交渉中
VCASI--あいさつ
このたび私どもは東京財団の研究プロジェクトのひとつとしてVCASI (“ヴィカシ”と読んでください) という試みを始めました。VCASI というのはVirtual Center for Advanced Studies in Institution の略称です。[直訳すると仮想制度高等研究所とでもなるのでしょうが、日本語としてはあまり四角張ってなじまないので、その趣旨はあまりうまく伝わりませんが、比較制度研究所としておくことにします]。その狙いを以下、私のパーソナルな想いを込めながら簡単に述べさせていただき、皆様のご支援をお願いします。
ご承知のように、Douglass North の Institution, Institutional Change and Economic Performance (日本語訳『制度・制度変化。経済成果』、竹下公視訳)が出版された1990年頃を劃期として、経済学や、ひいては政治学、社会学などの分野で、制度研究のリバイバルとでも言った動きが国際的な学界でおこりました。それはとりもなおさず、ベルリンの壁の崩壊をきっかけとして、東欧、ソ連における共産主義体制があれよという間に終焉した時でもありました。思えば、20世紀は「計画の思想」が、単に共産主義体制だけでなく、資本主義体制の内部においても、ケインズ政策や戦時経済体制、産業政策、大企業寡占体制などという様々な形をまとって、力をふるった時代であったともいえましょう。しかし前世紀の末になって、インターネットの発展も含め、そうした思想の力が褪せる様々なことがおこりました。しかし、だからといって自由放任の市場体制なるものの最終的な勝利が確認されたというわけでもない、ということが明らかになるのには時間はかかりませんでした。自発的な相互交換の可能性の機会を広げるということは、確かに、当事者同士に有利なのですが、信頼に足る交換のネットワークは自由に放任しておけば発展するものでもないことは、世界のどこを観察しても日々実感されることです。
こうしたことが、制度研究のリバイバルの一つの契機となったことは明らかです。市場は確かに社会を構成する重要な制度の一つですが、それがどう機能し、どういう成果を生むかは、社会に働いている規範や、権利・義務の関係を形式化し実効化する国家制度、ひいては技術や文化などとの相互作用の中で決まります。そして、それらの関係はそれぞれの国や地域の歴史に大いに依存しています(学術的な流行語で言えば「歴史的的経路依存性」といわれるものです)。ですから、そういう制度に働きかけるための政策も、それらの歴史的に形作られた関係とのある種の適合性(フィット)を持たなければ、有効性を持ち得ません。このことは、アメリカのイラクにおける占領政策の混乱を見ても明らかです。制度研究が、政策研究にとっても重要な意味をもつ所以です。
ここで、それではなぜVCASIなのか、ということを説明するために、私の個人的な経験にすこしふれることををお許しください。私は90年代にはスタンフォード大学で制度研究の非常に恵まれた環境におかれました。Milgrom, Greif などの同僚と、Comparative Institutional Analysis というPh.D のフィールドを経済学部に設け、数多くの大学院学生とも問題意識や研究課題をともにすることができました。それに加え、社会学、政治学、法学、心理学などの各分野の制度研究に関する一流の研究者との交流もありました。こうした経験を経て、制度研究に関するいわばtrans-disciplinary な研究の必要性と有効性を身をもって感じるようになりました。そうした90年代の研究の成果を研究書としてほぼまとめ上げたころ、日本の通商産業省(当時)から研究所へのお招きを受け、日本の政策研究の現場に参加する機会を与えられました。North教授から「制度研究のフィー・ルドワークだ」と励まされた記憶があります。やがて同研究所が、独立行政法人になったのを機会に、行政官・大学研究者・民間スペシャリストのあいだの実質的な共同研究体制を半恒常的に作り上げる努力をしました。そうした研究体制は、以前は特定の政策形成のためにアドホックに作られた省庁主催の政策研究会以外にはみられなかったので、斬新な試みであったといえます。3年の間に、20冊以上の研究書・政策提言書を出版することができ、それなりの成果は上げられたと自負しておりました。しかし、他方では独立行政法人とはいえ、基本的には親官庁のガバナンスのもとにあるということからくる様々な制約(特に研究者の自主性・自立性に対する理解のなさ)を次第に感じるようになり、3年で職を辞することにしました。
この間日本でも、大学の法人化、行政官や民間スペシャリストたちのの流動性の増加などがおこり、これまでとは違った研究コラボレーションの模索が潜在的に可能になりつつあります。またインターネットの発展は、学術情報の流通やディスカッションのあり方に革命的とでも言ったような変化をもたらしつつあります。これまでは、一流といわれる学術誌に時間をかけてでも発表するということが、国際的な学者の第一義的な目的であったのですが、いまでは研究成果をできるだけ早くしかるべきサイトに発表するという激烈な競争が始まっています。またそうした成果は、ネットにさえアクセスできれば、世界中のどこででも瞬時に知られうることになります。また面識のない研究者同士の間でも、ネットを通じて相互に意見交換や批判を受けることが可能です。潜在的に有用な文献の検索や難しかった文献の入手も一段と便利になりました。
こう言う事情をあわせ考えて、私たちはVCASI の実験的な試みを始める機が熟したと考えるようになりました。その目的や考えは次のようなものです。
- 学術の発展と有効な政策分析の双方にとってこれまでになくその重要性が増している「制度研究」に様々なレベルで従事する (VCASI のStudies in Institutionの側面)
- これまでの社会学の縦割り的な分野分けにとらわれない超学際的なコミュニケーションを通じて、制度研究における先端的な成果をめざす(Advanced Studies の側面)。
- 研究・活動分野、所属組織・場所、キャリアなどにとらわれない研究者間のコミュニケーション、コラボレーションとその成果の伝播を実現するために、時々のフェース・ツー・フェースの会話に加え、インターネット技術の利用・開発をめざす(Virtual Center の側面)
こうした目的を実現する活動には、当然それを支える資金と、それを有効に、目的に沿って用いているか、をモニターするガバナンスのメカニズムが必要です。そして特定の利益集団(役所を含む)からは自由な、自己責任に基づいた研究を支え、評価していただくには、中立的な民間の財団の支援がもっとも望ましいことは言うまでもありません。アメリカにおける研究の先進性の制度的な背景としてよく指摘されることです。こういう可能性は、まだ日本においては未成熟といって良いと思われますが、幸いにもVCASIの計画は、加藤秀樹会長の下に新発足した東京財団のお目にとまり、財団自身のプロジェクトとして発足させていただくことができました。大変な幸運であると考えます。その期待に応えられるように最大限頑張りたいと考えます。なにぶん新しい実験でもあるので、それがフル稼働するには多少の時間がかかるかもしれませんが、皆様のご支援と時と場合によってはVCASIの活動自体へのご参加を心から願っております。
2007年5月30日